出身地を聞かないのは、暗黙の了解!?
本日のテーマは、タイトルにもある通り出身地についてです。
Where are you from?
トロントに来てから初めての自己紹介は、寮の階のメンバーに向けてでした。
そこで、んん?と感じたのが、皆、I’m from 〇〇. がなかったということです。
私は、I am an exchange student and I am from Japan. と言ったのですが、自分の出身地を紹介していたのは40人中数人でした。
日本では、海外から来た人に会うとまず、Where are you from? と聞きますよね。
そこからその国について話したりと、この質問は会話の入り口になることが多いような気がします。
しかし、ここトロントではほとんど出身地を聞くことから話し始めることはありません。
メジャー(専攻)は何?何の授業を取っているの?と聞かれ、
自分は留学生で、ここでは専攻はないから興味のある授業を取っているよ、と説明して初めて、「そうなんだ、どこの国から来たの?」と聞かれます。
大学外で出会った人たちも、基本的にそういうスタンスでした。
やはり、多国籍な国だからですね。
様々な人種があり、その中でも代々住んできた人、国籍を取得した移民、カナダ国籍ではない移民、私のような留学生やワーキングホリデーで来ている人など、多種多様な人がいます。
出身地がどこかを聞かないのは、相手がカナダ出身かもしれないこと、それ以前に皆バックグラウンドは様々だとわかっており、それが当たり前だと受け入れているからだと思います。
その代わり、Where is your hometown? や Have you lived here for your whole life?
実家はどこ?生まれてからずっとここに住んでいたの?
などと聞いたりします。ただ、この質問も仲良くなってからすることが多かったです。
逆に言えば、最初の友達作りの際に、日本人だからと興味を持ってもらえることは、想像していたより少なかったです。
自力で友達を作っていく必要がありました笑
あとは、中国系の人や、中国語を学んだことがあるという初対面の友達に、中国語で話しかけられることがありました。
嬉しいけど、ちょっと違う笑
そのようなときは、I don't speak Chinese. (中国語は話せません)と伝えます。
I'm not Chinese. や、I'm Japanese. は直接的で、少し失礼ではないかと個人的には考えています。個人的には、国やその国の人ということを強調して、否定しているように聞こえるため、私は好みません。
Land Acknowledgement
カナダでは、先住民族がもともと住んでいた土地に私たちが住んでいる、という認識をしています。
このことを Land Acknowledgement といい、大学の授業が始まる前やイベントの開会式、博物館など、その都度 Land Acknowledgement の文を読むことで、「自分たちはこの土地にやってきて、住ませてもらっている」という認識を深めます。
なぜこれを毎回するのかがわからない、と言っていたトロント育ちの社会人の方もいましたが、私は、Land Acknowledgement がとても素敵な取り組みだと思います。
自分たちが後から来た者であること、先住民の人々を苦しめた過去があることを認め、彼らを尊重して共に生きる、ということを自然な感覚として身につけることで、皆が生きやすい社会になるのではないでしょうか。
さて、日本はどうなのでしょう。
琉球やアイヌの人たちの権利や文化は、尊重されているのでしょうか。
ちゃんと、子どもたちや大人も彼らについて学び、知っているでしょうか。
もちろん、それぞれの地域に先住民族がいるカナダとは違い、日本には地域的にしか先住民がいません。
それでも、歴史的にいう「倭人」が彼らを苦しめたことが現在から切り離して捉えられていたり、文化が十分に守られ、尊重されているとはいいがたかったりします。
過去を過去として捉えるのではなく、現在に至るまでどのようなことがあったのか、現在はどうなのか、どのような理解が必要なのかを考える必要があると思います。
これが政治(法律)にも、人々の生活にも反映されているのがカナダです。
最後に
留学に行って様々な人がいることに驚いた、という話をよく聞きます。
ですが、(とてもありがたいことに)高校時代にさまざまな国の人と接する機会があった私は、カナダに来てから、人種が多様であること自体には、それほど驚くことはありませんでした。
むしろ、日本で周りをみると日本人がほとんどであることが少し怖かったほどです。
私は、トロント・カナダに来て、人種の多様性よりも、多様性を当たり前として生活し、人と接する文化に感銘を受けました。
これが、人種の坩堝と、パッチワークの違いなのですね。
パッチワークと聞くと、カナダに来るまでは、それぞれルーツを持つ文化が確立したうえで共存することだと思っていました。
もちろん、そうではあるのですが、それが人々の考えや心に溶け込んでいることこそが、人種のパッチワークなのだと感じました。
説明しづらいですが、表向きではなく、人々の内から自然とそのような意識が根付いているというイメージです。
日本では、日本で生まれ育ったり、日本に長年住んでいるのにも関わらず、見た目で判断されてしまうことはまだまだあります。
他人を区別せずに皆同じだと自然に受け入れることは素敵です。
日本も、少しずつそうなればいいな。